世界は「使われなかった人生」であふれてる

この魅力的な題名を持つ沢木耕太郎のエッセイは、
映像を巡る断章として一応は読まれる体裁を持ってはいる。

しかし単なるエッセイと括るには抗しがたい魅力に溢れている。

写真や小説は他人の人生を追体験させてくれる存在だ。

誰にでも「使われなかった人生」と
「ありえたかもしれない人生」は存在する。
しかしこの両者には決定的な差違があると沢木耕太郎は規定する。

「ありえたかもしれない人生」には、
もう手の届かない、だから夢を見るしかない遠さがある。
「使われなかった人生」には、
具体的な可能性があったと思われる近さがあるのだ。

沢木耕太郎は22歳、入社式当日の雨の朝、
会社に入るのをやめることを決意した。
筆者は会社員としての人生を使わなかったのだ。

それは沢木の「使われなかった人生」ではないのだろう。
雨の朝の向こう側にいってしまった人生は、
筆者にとって使わなかったことを惜しむ気持ちがないからだ。

世界にあふれている「使われなかった人生」は、
その当事者が「使わなかった!」と痛切に意識したとき、
初めて存在しはじめるものなのだ。

「ありえたかもしれない人生」の夢は甘美だ。
それは時間を戻す手段でもない限り、やり直す事が出来ない。
しかし「使われなかった人生」は「使わなかった人生」でもある。

使わなかったという自覚は、単に後悔したり追憶にふけるだけでなく、
いまからでも使ってみようという未来に向けての意志を生む可能性がある。

「使われなかった人生」は、
その人が使わなかったと気付いた時点で、
一部であっても使うことが出来るのだ。

世界は「使われなかった人生」であふれてる。
我々の周囲には、いかに多くの「使われなかった人生」があるのだろう。


c0018195_234298.jpg


にほんブログ村 地域生活ブログ 山梨情報へ

人気ブログランキングへ
ランキングに参加しています。上の二つのアイコンを
それぞれ一日一回だけ、物語っと押してくださると・・・

[PR]

by tsunagunpo | 2009-07-21 23:06 | こまいズム