大島渚を追悼する

大島渚の映画を語ろうとする時、
居心地が悪くなるのはどうしてだろう。

まるで隣家の夫婦げんかを目撃してしまったように、
バツの悪いものを覗き見してしまった。
それが私にとっての大島渚体験だ。

大島渚の映画はアヴァンギャルドであり、
常に先鋭的であり続けた。

特に初期作品が描くその先鋭さは、
日本の映画作家が避けて通ろうとした、
因習や穢れをフィルムに叩きつけ、
限りなくアジテーションに近いものだ。

それはハッタリであり、ケンカ上等のプロパガンダである。

「愛のコリーダ」で一躍“世界のOSHIMA”になったのも、
この内容なら評判を呼ぶだろうという山師的な発露だろう。

大島渚の映画は「鑑賞」ではなく「体験」だ。

それは映画の発明者と言われる、
リュミエール兄弟の手による「列車の到着」を想起させる。

カメラに向かってくる汽車を捉えたシネマトグラフは、
本物の列車が飛び込んでくるのかと、
劇場を訪れた観客が大騒ぎしたという伝説を思い出す。

大島渚は果たして映画作家だったのか。

まだ我々は大島渚を発見していないのだ。


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by tsunaguNPO | 2013-01-16 16:32 | こまいズム