カテゴリ:こまいズム( 259 )

希望の国

日本で生きることの覚悟。

園子温の「希望の国」は、
現在最大のタブーである原発と向き合った、
意欲作であり、魂の叙事詩である。

東日本大震災の記憶も薄れぬ頃、
長島県で酪農業を営む小野一家は再び大地震の悪夢に遭遇する。

近くの長島第一原発もどうやら事故を起こしたらしく、
警戒区域が指定されるが、小野家の庭にちょうど20kmの境界線が引かれる。

すんでのところで圏外になった母屋の中で、
妻が妊娠したばかりの息子夫婦と小野はともに苦悩することになる。

その目に見えないもの=放射能をいかにして可視化させるか。

放射能は目に見えない。
例えばどんなに強いメッセージを持った映画であろうと、
どんな素晴らしい未来へのビジョンが語られていようと、
映画は常に観客に可視化されたギミックを提示しなければならない。

放射能から生まれた怪獣「ゴジラ」は、
原爆・水爆という恐怖の総和を可視化したものであった。

園子温は放射能の可視化を「バリケード」という形に託した。

その境界線は善悪の狭間であり、世代の断絶である。

ラストシーン、頼りない若者のカップルが、
何もない雪野原を「一歩一歩、一歩一歩」と呟きながら進んでいく。

繰り返しのリズムは、
それでも生きなければいけない人生のメタファーだ。

頼りない歩みの先にある希望。

そんな彼らのおぼつかない足取りの中に日本の今がある。

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by tsunaguNPO | 2013-03-13 22:17 | こまいズム

メランコリア

我々は呆然としながらも、
終焉を受け入れるしかない。

ラース・フォン・トリアーの「メランコリア」は、
かつてないアプローチが心に残る叙事詩だ。

その日はジャスティンにとって、
人生最高の1日になるはずだった。

マイケルとの結婚パーティーは、
姉クレアと夫ジョンの豪華な邸宅で盛大に開かれた。

しかし、皆の祝福を受けながら、
ジャスティンは激しい虚しさと気だるさに囚われている。

そして、パーティーは最悪の結末を迎える。

憔悴しきったジャスティンが、
クレアとジョンの邸宅を再び訪れた際、
惑星メランコリアは地球に異常接近していた。

この作品は観客を選ぶ。

心の病について描かれたり、
精神病が語られる映画は数多く消費されている。

だがこの作品を送り出したラース・フォン・トリアーは、
実際に精神を患っている「やばい」ヤツなのである。

共感と理解がこの作品の隠れたテーマだ。

その監督の意図が観客に届くのか、届かないのか。

ワーグナーの「トリスタンとイゾルテ」の旋律にのせ、
地球に迫る妖星=メランコリアは、ただ禍々しく鮮烈に美しい。

家族が静かなパニックで精神を壊す中で、
主人公のジャスティンは破滅を目前にして平明な心を取り戻す。

彼女が見た世界の終わりは彼女の幻想だったのか。

世界は輝き、終焉は甘美であり続けるのである。

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by TsunaguNPO | 2013-02-05 20:56 | こまいズム

大島渚を追悼する

大島渚の映画を語ろうとする時、
居心地が悪くなるのはどうしてだろう。

まるで隣家の夫婦げんかを目撃してしまったように、
バツの悪いものを覗き見してしまった。
それが私にとっての大島渚体験だ。

大島渚の映画はアヴァンギャルドであり、
常に先鋭的であり続けた。

特に初期作品が描くその先鋭さは、
日本の映画作家が避けて通ろうとした、
因習や穢れをフィルムに叩きつけ、
限りなくアジテーションに近いものだ。

それはハッタリであり、ケンカ上等のプロパガンダである。

「愛のコリーダ」で一躍“世界のOSHIMA”になったのも、
この内容なら評判を呼ぶだろうという山師的な発露だろう。

大島渚の映画は「鑑賞」ではなく「体験」だ。

それは映画の発明者と言われる、
リュミエール兄弟の手による「列車の到着」を想起させる。

カメラに向かってくる汽車を捉えたシネマトグラフは、
本物の列車が飛び込んでくるのかと、
劇場を訪れた観客が大騒ぎしたという伝説を思い出す。

大島渚は果たして映画作家だったのか。

まだ我々は大島渚を発見していないのだ。


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by tsunaguNPO | 2013-01-16 16:32 | こまいズム

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

再び終わるセカイ。

庵野秀明の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」は、
リビルドされた新シリーズの第3作目である。

衛星軌道上。エヴァンゲリオン改2号機を駆る
式波・アスカ・ラングレー。

そして遠距離から8号機で彼女を援護する、
真希波・マリ・イラストリアスは、
敵の猛烈な攻撃を受けながらも葛城ミサトの指揮のもと、
統制のとれた作戦行動を進めていた。

彼女たちが狙っていたのは碇シンジを乗せたまま、
捕われた初号機の機体だった。

世界はほぼ終末を迎え、惨憺たる状態のまま、
前作から14年も経っているという設定だ。

3.11後とのシンクロ率も高い地獄絵に息を殺すなかの残酷。

衝撃的なのは、主人公シンジに対するミサトの拒絶の言葉だ。

「もう乗らないでいい」

それは少女を救うための決死の行為が引き金となって、
世界が崩壊寸前に陥ったことへの代償である。

幸福なカタルシスをもたらした前作の直後に、
思い切り我々を庵野秀明は奈落へと叩き落とす。

我々はほんとうに世界の存続を求めているのか。

新劇場版シリーズとは旧作の変奏曲ではない。

我々は一縷の希望をもって、愛と未来を見出す、
絶望からの再構築の完結を待つしかないのだろう。


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by tsunaguNPO | 2012-12-04 20:25 | こまいズム

ニーチェの馬

禍々しく密やかな世界の終末。

ハンガリーの鬼才タル・ベーラの
ニーチェの馬」は寒村に住む貧しい父娘と、
疲れ果てた馬の最期の6日間を描く映像詩である。

1889年、イタリア・トリノ。

ムチに打たれ疲弊した馬車馬を目にしたニーチェは、
馬に駆け寄ると卒倒し、そのまま精神が崩壊した。

馬の持ち主である貧しい父娘は、
寡黙に単調な毎日を生きていた。

そして質素な石造りの家の外では、
いつ止むとも知れぬ激しい風が吹き荒れていた。

我々はその設定から、
ヴィクトル・シェストレムによる1928年公開の無声映画、
リリアン・ギッシュ主演の「」を否応なく想起するだろう。

この作品で絶え間なく吹き荒れる強風は、
父娘に襲いかかる暴力としての装置だ。

起床、着替え、ジャガイモひとつきりの食事、
馬の世話、井戸への水汲み、そして就寝。

これらを繰り返すだけの生活が、
過去からいつまでも続いているような長いカットで反復される。

その反復は人間の存在の意味をあぶり出す。

黙示録は業火で焼かれるばかりではない。

本当の終末は死に近い沈黙、
静謐な孤独をもって終わっていくのだ。


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by TsunaguNPO | 2012-11-05 14:26 | こまいズム

ダークナイト ライジング

強い暗黒と弱い暗黒。

クリストファー・ノーランの「ダークナイト ライジング」は、
鳴り物入りの新生バットマン3部作完結編である。

前作「ダークナイト」から8年。

ゴッサム・シティーは犯罪なき安全な街となり、
バットマンは出番もなく半引退状態である。

そこへバットマンへの復讐を誓うテロリスト、ベインが現れる。

ベインは周到な計画と圧倒的な暴力によって、
ブルース・ウェイン=バットマンからすべてを奪い去る。

外向的な暗黒と内向的な暗黒が、真っ向から激突する。

善と悪の戦いではない。光と影の戦いでもない。

それは悪と悪の対決であり、影と影の内戦に近いのだ。

「ダークナイト ライジング」はマスクをかぶった、
スーパーヒーローについての映画ではない。

マスクをかぶらずとも、
人はヒーローとなれると宣言する映画だ。

ベインに敗北したバットマンはマスクをはがされ、
地の底に放擲されてまう。

だがブルース・ウェインは生身の人間として、
一人で立ち上がり、圧倒的な意志の力で甦る。

それはバットマンとしての復活ではない。
あくまでも人間ウェインの再起なのだ。

人は特別な能力ではなく意志によってヒーローとなる。

暗黒叙事詩は大音量のヘビメタではなく、
崇高な決意を人にまとわせる。

クリストファー・ノーランは3部作最終章にふさわしい、
黙示録的世界を展開し、交響曲の全弦合奏を響かせるのだ。

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by TsunaguNPO | 2012-07-31 11:36 | こまいズム

写さなかった写真

子どものころの記憶は、
写さなかった写真のようなものである。

普段はどこにどう仕舞ってあるのか
見当もつかないが、ふとしたはずみで焦点が合う。

ポラロイド・カメラのように、
瞬間に現像焼付がされて目の裏に一枚ずつ出てくるのだ。

楽しいことも、悲しいことも、
何かのきっかけで同じ引き出しから飛び出してくる。

封じ込めたい記憶も同じなのだろう。

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by TsunaguNPO | 2012-07-27 09:45 | こまいズム

檻の中で

ヒト以外の動物の世界に「いじめ」は存在しないらしい。

動物にあるのは攻撃だけである。

縄張りやメスをめぐる争いがエスカレートし、
闘いに発展する。

壮絶な闘いも勝負がつけば、それまでだ。

敗者は逃げるか許しを請う。勝者も深追いはしない。

ヒトも外の敵には激しく攻撃する。
だが対象がいなくなった途端、今度は内に向かう。

これがいじめというものらしく、一種の奇形という。

閉鎖空間では動物の攻撃は陰惨を極める。

穏やかな生き物と思われるハトは、
檻の中では意外な一面を見せるらしい。

弱いハトを執拗に攻撃し、
死んでもはらわたを食いちぎったりする。

闘い慣れていない分、攻撃は徹底しているのだ。

学校を閉ざされた檻に例えれば、
子どもたちは逃げ場を失ったハト同然なのかもしれない。

まずヒトの中に残虐さの資質があることを認める必要がある。

その上で暴力やいじめに敢然と立ち向かう勇気を持つのだ。

いじめは傍観者が多いほど、
エスカレートするという研究報告もある。

見て見ぬふりはもうやめるのだ。

そうしないと、日本社会の背骨が本当に溶けてしまうだろう。

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by TsunaguNPO | 2012-07-21 10:01 | こまいズム

ヒミズ

立派な大人になること。

園子温の「ヒミズ」は、
古谷実のマンガを原作とした、
魂の救済の叙事詩だ。

15歳の少年・住田祐一は、
実家の貸しボート屋に集まる、
東日本大震災で家を失くした夜野さん、
田村さんたちと平凡な日常を送っていた。

祐一のクラスメイトの茶沢景子は、
大人びた雰囲気の祐一が好きで猛アタックをかける。

疎まれながらも祐一との距離を縮めていく景子。

ある日、借金を作り蒸発していた祐一の父が帰って来た。

金をせびりながら殴りつける父親の暴力に耐える祐一。

ほどなく母親も中年男と駆け落ちしてしまい、
祐一は天涯孤独となってしまう。

この映画でどうしても議論を避けて通れないものは、
震災後の廃墟の映像を作品に取り込んだことだ。

震災もいずれ、その悲しみは記号化され、
記録と化してしまう運命にある。

今、この悲しみに名前を付けて、
心の引き出しに仕舞ってしまっていいのだろうか。

悲しみであれ、なんであれ名前を付けるという行為は、
それにかたちを与えることで対処が可能であることを示唆する。

震災の風景を題材に映画を作ることは、
その悲しみにタグを付け、かたちを与える作業だ。

かたちを与えられた以上、そこから風化は始まる。

人の思いはどうやって風化するのか。

祐一は「立派な大人」になろうとしている。
親がクズで、愛情の注ぎ方を知らなかったからだ。

彼は怒る。彼は苦しむ。彼は暴れる。彼は叫ぶ。

それは決して、あの震災を風化させまいとする、
作り手と演じ手の確固たる意志なのか。

悲しみのかたちは足掻き、生きることなのだ。

人は誰も、住田祐一なのである。

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by tsunaguNPO | 2012-07-17 11:04 | こまいズム

1万円で出来ること

各地で行われている地域活性化策で、
目立つものは「行政主導」の大掛かりなものだ。
当然、費用も人手もそれなりの規模になってしまう。

知恵とユーモアがあれば1万円でも何かが出来る。

それを証明したのが「やなな」だ。

やななは岐阜市の柳ケ瀬商店街の非公式キャラクターである。

2008年7月に誕生して以来、
全国の数あるゆるキャラの中でも特異な存在として、
4年間、岐阜市民を楽しませてきた。

製作費は1万円。
何せ頭と顔は段ボール箱で出来ている。

しかし、金額には換算できないほどの活躍ぶりだ。

柳ケ瀬で開催されたイベント「全国ゆるキャラ大集合」に、
2日間で12万人もの人出があったのも、やなながいたからこそだ。

やななの存在の大きさは、引退記者会見が物語った。
報道陣、テレビカメラが囲む様子は有名タレント並みだった。

引退については「みんなとあえなくなるのは本当にさみしいの」。
ユニークな動きは周りを和ませた。

価格破壊が進み、海外で生産された低価格商品が、
日本中で流通するデフレ時代。

1万円を元手に我々は地域を元気に出来るだろうか。

出来るのだと思う。熱意は人を動かす。

強い熱意と情熱に支えられた努力を続けることが、
個人や地方の多様性を育て、情報発信力を持った地域を産むのだ。

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by TsunaguNPO | 2012-07-11 17:16 | こまいズム