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シン・ゴジラ

観たい夢を観たあとの絶望。

総監督・庵野秀明の「シン・ゴジラ」は、
12年ぶりに日本で製作されたゴジラ最新作だ。

しかし、この映画の主役は巨大不明生物ではなく、
山ほどの登場人物の誰かでさえない。

主役は都市破壊のエクスタシーである。

怪獣は何故存在するのだろうか。

ビルを倒し、人を踏みつぶし、
人間の存在など意に介さず破壊に酔いしれ、
街を炎上させる怪獣の機能が徹底的に描かれる。

シン・ゴジラ」は確かに傑作怪獣映画なのだろう。
だがこの作品には甘美でもっと危険な罠が潜んでいる。

一致団結して国を守ろうとする政治家と官僚。
これをファンタジーと呼ばずして、どう呼べばいいのか。

ゴジラとは何か。
それは原水爆、戦争、地震災害など、
忘れてしまいたい禍々しさのメタファーである。

人は記憶を忘れることによって防衛する。
そして、全ての不都合を忘れた日本にゴジラは召喚される。

本作のヘッドコピーは、
「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)。」だ。

だが、一番の虚構は前代未聞の国家の危機に、
叡智と技術で総力を挙げて立ち向かう、日本国民そのものではないのか。

ラストシーン、凍結されたゴジラの尾に異形の人型が現れる。

それはオーギュスト・ロダンの未完の作品、
叙事詩「神曲」をモチーフとした、
巨大なブロンズ像『地獄の門』を彷彿とさせる。

「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」と刻まれた碑文の通り、
地獄の世界と、そこで繰り広げられる永劫の罰、
そして地獄の住人=日本人を庵野秀明は密やかに糾弾する。

「神曲」の地獄において最も重い罪とされる悪行は「裏切り」だ。
地獄の最下層・嘆きの川には裏切者が永遠に氷漬けとなっている。

何かを託し、夢を見ることさえ諦めた我々は、次代を裏切っているのではないか。
誇れる信念で国難に立ち向かえる指導者はどこにも存在しないのだ。

凍結されたゴジラは裏切りの暗喩であり、
それは失われた20年を過ごした日本人そのものの姿だ。

それが庵野秀明の作家性なのだと、溜飲を下げることはたやすい。
しかしその諦念があまりにも残酷なテーゼを奏でる。

明日、終末的な災禍が我々にたとえ訪れるにしても、
今日から幸せになることは決して、遅くはないのである。


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# by TsunaguNPO | 2016-08-17 06:58 | こまいズム

海街diary

私はお父さんとの思い出がほとんどないから、
いつかお父さんのことを聞かせてね。

是枝裕和の「海街diary」は、
吉田秋生のコミックを実写映画化した、
喪失と再生の物語である。

鎌倉に暮らす長女・幸、次女・佳乃、三女・千佳の3姉妹のもとに、
15年前に家を出ていった父の訃報が届く。

葬儀に出席するため山形へ赴いた3人は、
そこで異母妹となる14歳の少女すずと対面する。

父が亡くなり身寄りのいなくなってしまったすずだが、
葬儀の場でも毅然と立ち振る舞い、そんな彼女の姿を見た幸は、
すずに鎌倉で一緒に暮らそうと提案する。

親を許せない 長女
姉の幸せを願う 次女
父を知らない 三女
自分を許せない 四女

鎌倉の森、湘南の海。梅酒。
やさしい女主人のいる大衆食堂。

是枝裕和は、四姉妹それぞれの心の移ろいを、
みずみずしい風景に溶け込ませるように静かに、
少しずつだが確実に積み重ねていく。

「死」と「生」が共存するものとして描かれ、
法事や葬儀の場面が多いものの、暗さや湿っぽさとは無縁だ。

再三、ものを食べる場面が映し出され、
ふとした場面でさりげなくエロスが挿し入れられ、
死と生がともにある、ありのままの日常が淡々と綴られる。

生きづらさを乗り越えた先にある光。

その光は日常の積み重ねの中でのみ輝くのだろう。

かけがえのなさ、に向けられた祝福と惜別に人は生きている。

そのかけがえのなさを前にして、
我々は四姉妹がスクリーンに佇む姿に、
「事実」と「虚構」の区別など何の意味があろうかと、
ふと諒解するのである。

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# by TsunaguNPO | 2016-06-03 13:33 | こまいズム

言の葉の庭

こころの距離と現実の距離。

新海誠の「言の葉の庭」は、
新宿を舞台にした現代人の孤独を見つめた掌編である。

靴職人を目指す高校生タカオは、雨が降ると学校をサボり、
公園の日本庭園で靴のスケッチを描いていた。

そんなある日、タカオは謎めいた年上の女性ユキノと出会い、
2人は雨の日だけの逢瀬を重ねて心を通わせていく。

居場所を見失ってしまったというユキノのために、
タカオはもっと歩きたくなるような靴を作ろうと試みる。

思春期のノスタルジーを描かせたら、
新海誠に優るアニメ作家はいないのではないか。

総武線の車窓、新宿御苑、マンション、缶ビール、そして雨。

晴れた日には逢えないから雨を願う2人。

だが、梅雨の季節は終わり、夏がやってきて、
季節は動いていくのだ。

人はずっとその場所に立ち止まっていることは出来ない。

だが一歩を踏み出すことはとても勇気が必要だ。

タカオとユキノは不器用で生まれる時代を間違えた存在である。
しかしそんな彼らも現実世界に生きることを肯定していくだろう。

寂しさとか切なさは乗り越えて行かなくていい。
受け入れて、抱えながら歩いて行けるようになればいい。

現実の距離はホームの屋根に細長く切り取られた空の向こうだ。

その空の向こうをこころの距離が越えていくのである。

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# by TsunaguNPO | 2014-07-19 14:49 | こまいズム

女のいない男たち

ある日突然、あなたは女のいない男たちになる。
どこまでも冷ややかな複数形で。

村上春樹の新作短編集「女のいない男たち」は、
喪失という人生の破局が綴られた恐ろしい連作だ。

この短編集の白眉は、冒頭に載せられた、
「ドライブ・マイ・カー」である。

妻と死別した俳優が、
妻と不倫関係にあった同業の俳優と奇妙な友情を結ぶ。

俳優は故人の思い出を語らいつつ、
ひそかな報復を企んでいる。

その告白を聞いているのは北海道出身の、
とある事情で俳優の運転手に雇われた無口な女性である。

「奥さんはその人に、心なんて惹かれていなかったんじゃないですか」

「だから寝たんです」

「女の人にはそういうところがあるんです」

彼女の言葉に俳優は落ち着いた心を取り戻したかのようだ。

淀みなく自然な彼女のギアチェンジのように、
俳優は新しい人生にシフトしていけるのだろうか。

一時の安息を手に入れても喪失はそこに横たわったままだ。

この短編集の主人公たちは、
いずれも女性との「正しい」関係を結ぶことに失敗し、
相手を失った男たちばかりである。

人はいつか大切な人を失ってしまう。

どんな失いかたをしても、いつか人は癒やされるのか。

村上春樹は「そうではないのだ」と呪詛のように物語を共振させる。

我々の人生は個であったとしても、
それはある瞬間にあっけなく全の中に回収されてしまうのだ。

それでも我々は生きたいと思わなければいけない。

人は、いつか必ず死ぬということを思い知らなければ、
生きているということを実感することもできないのだから。


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# by TsunaguNPO | 2014-06-02 18:03 | こまいズム

トイレその後に

とある市役所のトイレに。
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うん、うん、わかる、わかるー

# by TsunaguNPO | 2014-02-04 22:01 | ハセエリのつなぐ活動日記